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4月のアジア公演ではシンガポールまでの移動に丸1日かかり、しかも次の日がクレィジー・フォー・ユーの中に大きなソロがあったために飛行機の中、台北の空港の待ち合わせ時間にポストホルンを吹いていました。

僕の愛用のポストホルンは師匠のAlois Bambula 先生からいただいたものです。ヴィンディッシュ製でEs管ですが、無理やりトロンボーンのマウスピースを入れてピッチがすこしぶら下がったままで吹いております。先生も演奏旅行やバカンスでトロンボーンを持ち歩けない時に 使っていたそうです。
さて、飛行機の中で消音ミュートを使うとほとんど周りの人には聞こえないものですね。あまり意識した事は無かったのですが、改めて飛行機内の音の大きさというものを認識しました。強行軍は続き、朝シンガポールを出て香港経由でマカオに着き、GP時間に間に合わないでぶっつけ本番で又クレイジー・・・を吹きました。まったくクレイジーですがその時もポストホルンによる口ならしで無事に切りぬけました。
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2002年2度目の海外公演は、アンサンブル・ペガサスという金管アンサンブルです。

まずマーラーが1才から15才まで住んでいたイフラーヴァ(イーグラゥ)に滞在し、演奏会を開く事が出来たことです。

又、僕達が泊まったホテルは昔のオーストリア軍の兵舎だったところで、ベートーベンの甥のカルルがいたそうです。 ベートーベンの死の知らせを受けてそこから馬車でウィーンに行ったそうです。又、幼いマーラーが軍の信号ラッパのメロディを聞き分けたそうですがそのラッパが奏された場所でもあります。やはり作曲者の空気感を体験するという事はとても大切だと感じました。
又、モラヴィアの州都のブルノに行く事も出来ました。モラヴィアは僕の大好きなヨゼフ・マティのtb協奏曲の舞台でもあります。ひたすら風景を自分の感覚の中に取り込みました。
さて、チェコを後にウィーンに戻った後、夜ウィーン国立歌劇場で「ホフマン物語」を見、次の日の昼にムジークフェラインでにウィー ン・フィルの「英雄の生涯」その日の夜ベルリン・フィルでシューベルトの「グレート」を聴くという強行鑑賞をしました。
それぞれ素晴らしかったのですが、約30年ぶりに指揮者のサィモン・ラトゥルに会えたのがとてもうれしい出来事です。かつてアバーディーンで行われた青少年のオーケストラフェスティバルで彼の指揮でオープニングの演奏をし、又コープランドの指揮の時は一緒にオケの一員として演奏したものです。その話をしたらしっかり覚えていたのは驚きました。やはり指揮者の記憶力はすごいものがありますね。
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僕の指揮プロデビューは9月にヴィヴィッドブラス東京の音楽鑑賞教室で実現しました。
いやぁプロってすごいものだと改めて実感しました。1回目合わない個所が何も指示しないでも2回目にはピタッ音が集まってきます。集まった瞬間は本当に怖いぐらいです。しかも僕の棒の不完全なところはちゃんと「見ないで」吹いてくれます。(^^;)
この辺のやりとりは病みつきになりそうです。ヴィヴィッドブラスの皆さんありがとうございました。
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さて、12月にはアメリカのシカゴ公演です。この時もコンディション作りにポストホルンが活躍しました。
ミッドウエストのバンドクリニックに東京佼成ウィンドオーケストラで参加しました。大きな出来事はフェネルさんがまったく衰えを見せず見事な指揮をした事でしょう。もう日本に来るという「移動」の体力は難しいのかもしれませんが、音楽をするという事においては昔とまったく変わらない鋭い指示、眼差しで演奏しました。
シカゴで驚いた事は空気の「重さ」です。日本だったら吹きすぎて開く感触で吹いても音がまとまって「飛ばない」のです。ホールのせいではなく、ホテルの部屋、大学のホールでも同じでした。同じ事を他の人も言ってましたから気のせいではないでしょう。
スケジュールの合間に又も強行軍でシカゴ交響楽団を3度聴きました。またまた驚いたのはあのシカゴが実に繊細でデリケートなオケなのです。日本で聴いてももちろん素晴らしいには違いないのですが、あのパワーと開き気味の木管に少し違和感がありました。ところが、本拠地で聴いたシカゴはムジーク・フェラインのウィーン・フィル共通した繊細さがありました。
もうひとつ共通点は、定期演奏会といっても、けっして気負った演奏ではなく、普段着のように客席と舞台が一体になっていた事です。
やっぱり本拠地が欲しい!というのが2002年の締めくくりの感想でした。