激動の入学試験を突破し、大学に入った僕は学生の質の高さに驚いた。だいたい音楽大学に入ろうとするものはそれぞれの地域では腕の立つ人ばかりである。自分が井の中の蛙である事が実感するのには1ヶ月もかからなかった。同級生の誰の演奏を聴いても自分とはかけ離れていた。ありえない事をさも当たり前のように演奏する。しかも皆、練習量が半端じゃないのだ。浪人時代に15分練習してすぐに休憩していたのだが、朝から晩まで連続して練習する人も珍しくない。
しかし練習量を増やそうとすると音色にストレスが入り、自分で納得出来ない。これを我慢して吹き続ければ耐久力は増すのか?自問自答した。大学に入っても毎日数キロ走っていたのだから体力なら天才である同級生に劣るとは考えられない。
約1ヶ月が過ぎたある日、地下のロッカールームの空きスペースに卓球台があるのに気がついた。空き時間にはほとんど誰かが卓球をしている。思い切って仲間に入れてもらう事にした。音楽大学の学生は信じられないほど運動神経の発達している人がいるもので、上手い人は本当に上手い。何のストレスも無い綺麗なフォームで優雅にボールを打つピアノ科の先輩、同じく綺麗なフォームで攻撃するピアノ科の同級生。聞けば先輩は札幌で4位になった事があったそうだ。大学まで音楽一筋で来た人はもちろん初心者だ。他にも初心者がいたおかげで僕でもとりあえず仲間になった。
すぐにぽっこん、ぽっこんというゆるいボールでのラリー が出来るようになった。上級者の打ち合いになるとカッコカッコという音になる。ちょっとした休憩時間に5分ぐらい打って、授業に出て、楽器を15分吹いて卓球5分、授業受ける。このような生活パターンが続いていくうちに当然のように少しづつ卓球が上達していった。
驚いた事に、楽器の練習がうまくいかなくて頭が飽和している時に卓球をするとすぐに頭の中の霧が晴れてくるのに気がついた。音楽大学の学生の練習は毎日、毎回自分の出来ないところを集中的に攻めるのだから毎回頭が飽和する。飽和を解くのにたった5分の卓球が役に立った。
とはいえ、卓球の腕は初心者同士のぽっこんぽっこんであった。考えたら無理も無い。じめじめしたロッカールームに置きっぱなしになって いる、ラバーが剥がれてスポンジだけになっていたり、古くてつるつるになったラバーが付いているラケットばかりだからである。
ある日上級者の使っているラケットを借りたら飛び方が全然違っていた。そこで自分のラケットを持つ事にした。とは言え、高価なラケットは買えず、割れて落ちていたラケット(ヒノキの単版はすぐに割れる)を自分で修理し、それにラバーを貼って使った。ラバーの名前は「テンペスト」なんとベートーベンのピアノの名曲の題名と同じた。メーカーはバタフライ。先輩はテンペストよりも上位に最高級の「スレイバー」というのがあると教えてくれたが、値段が高くて手が届かなかった。
きちんと飛ぶラケットを使うと今まで入ったボールが上に飛んで行って入らないという事に驚いた。どんな分野でも同じだが、変な道具を使っていると動きが必要以上に大きくなってしまう。ちょっと時間がかかったが角度を修正して順応出来た。良い道具を使うとすぐに上達するのは音楽も同じ、卓球もマイラケットでどんどん上達した。生意気にも回転をかける事も少しづつ覚えていった。 ちょっと上手い人は初心者と見るとすぐに横回転のサーブを出して右に左にレシーブが外に出るのを見て、からかった。相手の手の動きと同じにすれば返せるという事を覚えたのはこの頃だ。
ある時に古いつるつるのラバーだと相手に回転をかけられても返せる事に気が付いた。そこで古くて使い物にならなくなったラバーを裏側に張り、とりあえずそれでレシーブすれば意地悪な相手でもラリーが出来るという事が分かった。その時ラバーを表裏に貼った厚みのために皆には「ホットケーキラケット」と言われた。相手が意地悪だとこちらも意地悪になるのは自然の道理、つるつるのラバーと新しいラバーと使い分けると相手がとまどうのが分かった。
「邪道」と言われてその方法を使うのをやめた。これはその後、中国が世界を越権した作戦(ラケットの表、裏に回転、反発の全く違うラバーを貼り、くるくる回して相手を惑わして主導権を握るという作戦)の賜物であったが、それを先取りしたのであった。
ちょうどその頃、日本で世界選手権があった。偶然見た女子選手に釘付けになった。混合ダブルスで男子の強力なスマッシュを易々と返し、チャンス ボールをスマッシュ一発でノータッチで抜き去る。後に知ったのが中国の林慧卿選手だった。その世界選手権での団体戦で林選手を破ったのが大関行恵選手である。ツッツキ(不思議な卓球用語であるが短いバックスピンの打法)の名人で当時の最高選手の林選手が首をかしげるぐらい回転の変化が強烈であった。
時期的にどちらが先か分からないが日本人同士の対決で凄まじいラリーをテレビで見た。一人はスマッシュされたボールを高くロビングを上げ、(テニスでロブと言うが守備の時に攻撃された打球を高く返球する打ち方)それをまるでバレー・ボールのアタックのようにジャンプして上から叩きつける。それを再びロビングで上げる。上げる選手がボールがインパクトするまで凝視し、まるでボクサーがパンチを食らったように顔を仰け反らしながら高く上げる。これは後で知ったが、打った方が伊藤繁雄、ロビングを上げた方が長谷川信彦選手、当時を代表する日本人の対決であった。
それらは雲の上の世界。僕が相変わらずじめじめした地下のロッカールームでぽっこんぽっこん、それでもラリーが出来る喜びに浸って、音楽と卓球の世界を行き来していた。
なぜ卓球なのか、大学編前半 完
2011/08/11
2008/08/22
08.08.22 北京オリンピック
北京オリンピックで卓球の愛ちゃんと張さんが戦いました。二人と2ショットとっている僕としてはどちらを応援していいか困りましたが、愛ちゃん1セット取れたのは善戦と思います。張さんオリンピック2連覇おめでとう!
2006/10/30
06. ?. ? 縄跳びへの挑戦
卓球に挑戦していたころ、縄跳びにも挑戦を始めた。
それまで連続の縄跳びはせいぜい100回が限度であった。両足同時に跳ぶと、ふくらはぎの筋肉疲労でとても持たない。それで交互に(駆け足のように)跳ぶ事にした。それで200回ぐらいに増えた。しかし右右左左という足の順にした方が足の疲労が少ないことが分かり、それから長時間跳ぶときには必ずこの順にした。それで調子の良いときには500回を越すようになった。
しかし、体力が残っているのにも関わらず、どうしても縄がひっかかるのである。
夜公園で練習している時に、街灯に背を向けて自分の影を見ながら跳んで分かったことが、縄が空中で歪む事であった。どうして歪むかというと、右と左の速さの微妙な違い、そして利き腕の反対の左手の動きが大きい事であった。数は気にしないで、空中の縄の形が左右対象のきれいな楕円になるようにこころがけた。それでも大体500近辺でひっかかるのである。影を見て分かったのは、ちょうどその回数近辺で疲れが出て肩と手が上がるという事であった。肩が上がれば縄も上がる。そうすれば足にひっかかる。どうしてこんな簡単な事に気がつかなかったのか!!縄は足にしかひっかからなかったのである。500近辺になって手が上がりそうな予感がすると、意識して手を下に戻し、また上がりそうになると手を戻す。これを繰り返す事で一挙に2000回ぐらいにまで回数は増えて いった。
ある日、3000を超えたのでとりあえず5000回ぐらいに自己新記録を狙おうと思い、やめないで続けていた。4999、5000を数えたところで、せっかく調子がいいから6000狙おうと思った。6000も超えた!せっかくだから7000、これも超えたところで心の片隅で「まさか10000狙う?そんな恐ろしい事」という気持ちが湧いてきた。「適当なところでやめてしまえ」という心と「おまえ、逃げる気か?」という心の葛藤、逃げない事にした。
10000回に挑戦する気になってからの8000、9000回と区切りの回数でのプレッシャーはすさまじいものとなった。時々縄が靴の側面をかする。縄が歪んだ証拠だ。すごい時はかかとをかすった事もある。ほんの数ミリ厚くかかとに当たったらストップだ。すぐに手を下げる。そのうちに鼻の頭がかゆくなる。昔剣道の面をかぶってかゆかった事を思い出す。その時は鍔を面の隙間から入れて掻く事が出来たが縄跳びでは我慢するしかない。9000からの100回毎のプレッシャーは、まるでボレロかブラームスの1番である。ボレロは特にそうだが、最初のBbが無事に出ても次の関門がある。ひとつひとつの音を出す時に 「まだ油断するな!」と言い聞かせ、最後の音が終わるまで気が抜けない。そんな心境だ。ついに9997、9998、9999、10000、ついにやった! と思いながらも10001~~~と続いている。もう10000を達成したからどうでもいいや、とめちゃくちゃ跳びをしてひっかかるのをまったがぜんぜんとまらない。10100を超えたあたりで止めた。時計を見たらほぼ1時間だった。
それまで連続の縄跳びはせいぜい100回が限度であった。両足同時に跳ぶと、ふくらはぎの筋肉疲労でとても持たない。それで交互に(駆け足のように)跳ぶ事にした。それで200回ぐらいに増えた。しかし右右左左という足の順にした方が足の疲労が少ないことが分かり、それから長時間跳ぶときには必ずこの順にした。それで調子の良いときには500回を越すようになった。
しかし、体力が残っているのにも関わらず、どうしても縄がひっかかるのである。
夜公園で練習している時に、街灯に背を向けて自分の影を見ながら跳んで分かったことが、縄が空中で歪む事であった。どうして歪むかというと、右と左の速さの微妙な違い、そして利き腕の反対の左手の動きが大きい事であった。数は気にしないで、空中の縄の形が左右対象のきれいな楕円になるようにこころがけた。それでも大体500近辺でひっかかるのである。影を見て分かったのは、ちょうどその回数近辺で疲れが出て肩と手が上がるという事であった。肩が上がれば縄も上がる。そうすれば足にひっかかる。どうしてこんな簡単な事に気がつかなかったのか!!縄は足にしかひっかからなかったのである。500近辺になって手が上がりそうな予感がすると、意識して手を下に戻し、また上がりそうになると手を戻す。これを繰り返す事で一挙に2000回ぐらいにまで回数は増えて いった。
ある日、3000を超えたのでとりあえず5000回ぐらいに自己新記録を狙おうと思い、やめないで続けていた。4999、5000を数えたところで、せっかく調子がいいから6000狙おうと思った。6000も超えた!せっかくだから7000、これも超えたところで心の片隅で「まさか10000狙う?そんな恐ろしい事」という気持ちが湧いてきた。「適当なところでやめてしまえ」という心と「おまえ、逃げる気か?」という心の葛藤、逃げない事にした。
10000回に挑戦する気になってからの8000、9000回と区切りの回数でのプレッシャーはすさまじいものとなった。時々縄が靴の側面をかする。縄が歪んだ証拠だ。すごい時はかかとをかすった事もある。ほんの数ミリ厚くかかとに当たったらストップだ。すぐに手を下げる。そのうちに鼻の頭がかゆくなる。昔剣道の面をかぶってかゆかった事を思い出す。その時は鍔を面の隙間から入れて掻く事が出来たが縄跳びでは我慢するしかない。9000からの100回毎のプレッシャーは、まるでボレロかブラームスの1番である。ボレロは特にそうだが、最初のBbが無事に出ても次の関門がある。ひとつひとつの音を出す時に 「まだ油断するな!」と言い聞かせ、最後の音が終わるまで気が抜けない。そんな心境だ。ついに9997、9998、9999、10000、ついにやった! と思いながらも10001~~~と続いている。もう10000を達成したからどうでもいいや、とめちゃくちゃ跳びをしてひっかかるのをまったがぜんぜんとまらない。10100を超えたあたりで止めた。時計を見たらほぼ1時間だった。
2006/08/30
06. ?. ? なぜ卓球なのか? 浪人編
大学入試に失敗した僕は浪人生活へと入る。自宅浪人を始めるにあたって、義兄が母にとくと説教したのが今でも思い出される。「お母さん、いいか、どんな小さな用事でも克己にやらせたらだめだぞ!家にいるからといってちょっとでも用事やらせたらだめだぞ!そうやって集中できなくて失敗してきた人を俺は何人も見ている!」
この言葉は本当にありがたかった。この言葉のおかげで、1年間自分のペースを守る事が出来た。だから今の僕があるといえる。
金管をまじめに勉強した人なら分かる事だが、唇の状態は刻々と変化する。9時に練習開始といっても、唇が対応できる状態とは限らない。そんな時は別の事をする。見ている人からすれば、たった数分ちょろっと音を出しただけで休憩に入り、忘れた頃にまた数分吹く。こんな姿が真面目には写らないだろう。しかし、良い状態での練習を点線で繋ぐような練習方法は劇的な進歩を産む。逆に、何か用事があったりしてまとめて何時間というように練習すると、唇のコンディ ションを無視してその日のメニューをこなすようになってしまい、プラスだけでなくマイナスの練習をも含んでしまう事になる。
僕がこのときのベストを点線で結んだ練習の1年間が、その後の長年の演奏活動の財産となっているように思う。この練習の考え方は、マラソンの金栗四三先生のマラソン練習の考え方を、トロンボーンに置き換えたものだった。
浪人中には時間に余裕があったために毎日走った。距離は少なくて5~6km、多い時は20kmにも達した。高校生でも大学生でもない立場で、「青年の部」で町の大会の5kmと10kmにエントリーし、なんと10kmの代表となってしまった。次の郡大会ではさすがに敗退してしまったが、小学校の運動会でのぶっちぎりのビリから考えたら夢のようだった。
その合間に運痴克服にも挑戦した。そのひとつは逆上がり。かつて通った小学校のグランドに走ったついでに立ち寄り、練習を始めた。
ところが低鉄棒で勢いをつけても回らない。体力はある。なぜ出来ないかとことん考えたが、どう考えても自分が出来ない要素が無かった。頭に図面を描いて分かった事は、鉄棒がお腹に当たった時、つまり体が回りこんで逆さになった時に、重心が頭の側にあるという事だった。下半身、足の方が鉄棒を超えて手前に来た時点で重ければ絶対に回るはず、と考えた。下半身が鉄棒よりも手前に来てないのは恐怖心、その時点での鉄棒の位置が足の方にある事は、腕力が原因と分析した僕は懸垂を始め、恐怖心を取り除くために前回りと逆さにぶらさがる練習を始めた。
前回りが出来ていたとはいえ、身体が地面につっこんで行くのではないかという恐怖心を除くには数が必要だった。逆上がりの途中段階、つまり足を上にして逆さにぶら下がる練習は、頭が下という感覚を養うのに役にたった。さらに、その状態で鉄棒の位置が臍よりも胸寄りに来るように、逆さでの懸垂もした。
何日も何日も、敢えて逆上がりには挑戦しないで訓練を続けた。というのは、ひとつひとつがぎりぎりの技術の要素を集めて、総合的に何かを完成させようと思うと、結局「自分は出来ないんだ」というイメージを固めてしまう。練習は必要以上にやりこんだ。
すべてが問題なく出来るようになり、いよいよ逆上がりへの挑戦だ。勢いはつけないで鉄棒に逆さにぶら下がり、まっすぐ上に伸ばした足を胸の方に折りたたみ、同時に腕の力で鉄棒を胸の方に移動(つまり身体を引き上げる)身体は何事も無かったようにあっさりと回転した。成功!!
次に高鉄棒でぶらさがった状態、静止の状態で逆さになり、懸垂。鉄棒が臍を超えるのに合わせて腰を折りたたむとこれもあっさりとクリアー!!
調子にのってその位置から反動をつけてもう1回転出来るようにまでなった。ここまでは小学生の時の運動神経の良い人でもなかなか出来なかった。
高鉄棒からグランドを見下ろし、まさに天下を取った気分であった。
なぜ卓球なのか 浪人編 ― 完 ―
この言葉は本当にありがたかった。この言葉のおかげで、1年間自分のペースを守る事が出来た。だから今の僕があるといえる。
金管をまじめに勉強した人なら分かる事だが、唇の状態は刻々と変化する。9時に練習開始といっても、唇が対応できる状態とは限らない。そんな時は別の事をする。見ている人からすれば、たった数分ちょろっと音を出しただけで休憩に入り、忘れた頃にまた数分吹く。こんな姿が真面目には写らないだろう。しかし、良い状態での練習を点線で繋ぐような練習方法は劇的な進歩を産む。逆に、何か用事があったりしてまとめて何時間というように練習すると、唇のコンディ ションを無視してその日のメニューをこなすようになってしまい、プラスだけでなくマイナスの練習をも含んでしまう事になる。
僕がこのときのベストを点線で結んだ練習の1年間が、その後の長年の演奏活動の財産となっているように思う。この練習の考え方は、マラソンの金栗四三先生のマラソン練習の考え方を、トロンボーンに置き換えたものだった。
浪人中には時間に余裕があったために毎日走った。距離は少なくて5~6km、多い時は20kmにも達した。高校生でも大学生でもない立場で、「青年の部」で町の大会の5kmと10kmにエントリーし、なんと10kmの代表となってしまった。次の郡大会ではさすがに敗退してしまったが、小学校の運動会でのぶっちぎりのビリから考えたら夢のようだった。
その合間に運痴克服にも挑戦した。そのひとつは逆上がり。かつて通った小学校のグランドに走ったついでに立ち寄り、練習を始めた。
ところが低鉄棒で勢いをつけても回らない。体力はある。なぜ出来ないかとことん考えたが、どう考えても自分が出来ない要素が無かった。頭に図面を描いて分かった事は、鉄棒がお腹に当たった時、つまり体が回りこんで逆さになった時に、重心が頭の側にあるという事だった。下半身、足の方が鉄棒を超えて手前に来た時点で重ければ絶対に回るはず、と考えた。下半身が鉄棒よりも手前に来てないのは恐怖心、その時点での鉄棒の位置が足の方にある事は、腕力が原因と分析した僕は懸垂を始め、恐怖心を取り除くために前回りと逆さにぶらさがる練習を始めた。
前回りが出来ていたとはいえ、身体が地面につっこんで行くのではないかという恐怖心を除くには数が必要だった。逆上がりの途中段階、つまり足を上にして逆さにぶら下がる練習は、頭が下という感覚を養うのに役にたった。さらに、その状態で鉄棒の位置が臍よりも胸寄りに来るように、逆さでの懸垂もした。
何日も何日も、敢えて逆上がりには挑戦しないで訓練を続けた。というのは、ひとつひとつがぎりぎりの技術の要素を集めて、総合的に何かを完成させようと思うと、結局「自分は出来ないんだ」というイメージを固めてしまう。練習は必要以上にやりこんだ。
すべてが問題なく出来るようになり、いよいよ逆上がりへの挑戦だ。勢いはつけないで鉄棒に逆さにぶら下がり、まっすぐ上に伸ばした足を胸の方に折りたたみ、同時に腕の力で鉄棒を胸の方に移動(つまり身体を引き上げる)身体は何事も無かったようにあっさりと回転した。成功!!
次に高鉄棒でぶらさがった状態、静止の状態で逆さになり、懸垂。鉄棒が臍を超えるのに合わせて腰を折りたたむとこれもあっさりとクリアー!!
調子にのってその位置から反動をつけてもう1回転出来るようにまでなった。ここまでは小学生の時の運動神経の良い人でもなかなか出来なかった。
高鉄棒からグランドを見下ろし、まさに天下を取った気分であった。
なぜ卓球なのか 浪人編 ― 完 ―
2006/06/30
06. ?. ? なぜ卓球なのか? 小中高 編
僕は元々は運動音痴、略して運痴であった。運動会ではいつもビリ、鉄棒にぶらさがればすぐに力尽きて落ちる、逆上がりなんてとんでもない、学校に通えば過労で1ヶ月に1度は熱を出して寝込む。とっくみ合いになれば、掴まれただけでもう動けない。大体小学生、それも5年生ぐらいに定着したイメージというのは一生引きずるものだ。自分の中でも他人の間でも「萩谷は弱い」というイメージが定着していった。
小学5年の時、一大奮起して運動会でがんばろうと思った。それは5年生から参加が許されるマラソンであった。マラソンなら短距離と違い、スタートダッシュなど関係無い。はたで見てるとノロノロと見える。自分は片道2Kmを毎日歩いて学校まで通っている。忘れ物をすると情け容赦なく取りに帰された時に鍛 えた足ならなんとかなるだろう。
ところが大誤算があった。少しでも身を軽くしようと思い、裸足になってスタートした僕を待っていたのは砕石だらけの道だった。どんなに健脚でもこれは無理だ。走るどころではない。皆にどんどん引き離されていき、僕がゴールしたのは次の競技の途中だった。だれも僕がマラソンの最後のランナーであるなんてわからない。担任の先生がそれに気がつき、一緒に走ってゴールしてくれた。
時代は変わって中学3年。我ながら相変わらずの虚弱をなんとかしなくては・・・という思いから、毎日走り始めた。中学校までは片道約5kmを自転車で通った。まぁ常識で考えればこれだけ通学で体を使っていれば体力は自然につくようなもんだが実際にはそんな程度ではついてなかったのだ。学校から帰って毎日走り、最初は1kmぐらいから体が慣れてきたらだんだん5kmぐらいになった。
中3の時の全校マラソンはしっかり上位に入った。やっと達成感、満足感が得られた。自分で出来ないと思っていた事が努力の結果他人も認めるように出来るようになるとその達成感はすごい。長距離走はその後エスカレートし、高校では吹奏楽部に在籍しながら一般のレースで30km走ったり、陸上部に誘われたり、陸上部のチームで市内駅伝に参加し、区間賞をとったりするまでになった。
そのころ、「いはらきマラソン」を見学に行った。スタート、ゴール地点にゲストに金栗四三氏が招かれていて、運命の出会いをする。1912年のストックホルム大会に日本人初のマラソン代表選手となり、倒れるまで走り、行方不明になったという伝説の持ち主である。(オリンピックの公式記録に棄権はあっても行方不明は無く、54年後に当時のコースをゴールまで走り、公式記録の54年8ヶ月6日5時間32分20秒3はマラソンの最長記録の持ち主でもある。僕が会ったのはこの記録達成の1年後)ひとりでぶらぶらしているのを見て意を決して話しかけた。金栗先生からは根性論が聞けるという期待があったが、実際に教えてもらったのは「適時に休む」というトレーニング理論であった。練習の休み方、練習の再開のしかた、朝起きた時の心構えなど、驚くほどの合理的なトレーニング理論に感銘を受け、その考えが後にトロンボーンの練習方法に大きな影響を与えてくれた。
虚弱からの脱却という意味では十分乗り越えた僕の心の片隅には次第に、「運痴」の問題が大きくなった。体力と運動神経はイコールではないのだ。その当時まだ逆上がりはできてないし、縄跳びだって100ぐらいでひっかかる、バドミントンだって空振り、逆上がりなんてとんでもなく、相変わらずの「運痴」で あった。
小学5年の時、一大奮起して運動会でがんばろうと思った。それは5年生から参加が許されるマラソンであった。マラソンなら短距離と違い、スタートダッシュなど関係無い。はたで見てるとノロノロと見える。自分は片道2Kmを毎日歩いて学校まで通っている。忘れ物をすると情け容赦なく取りに帰された時に鍛 えた足ならなんとかなるだろう。
ところが大誤算があった。少しでも身を軽くしようと思い、裸足になってスタートした僕を待っていたのは砕石だらけの道だった。どんなに健脚でもこれは無理だ。走るどころではない。皆にどんどん引き離されていき、僕がゴールしたのは次の競技の途中だった。だれも僕がマラソンの最後のランナーであるなんてわからない。担任の先生がそれに気がつき、一緒に走ってゴールしてくれた。
時代は変わって中学3年。我ながら相変わらずの虚弱をなんとかしなくては・・・という思いから、毎日走り始めた。中学校までは片道約5kmを自転車で通った。まぁ常識で考えればこれだけ通学で体を使っていれば体力は自然につくようなもんだが実際にはそんな程度ではついてなかったのだ。学校から帰って毎日走り、最初は1kmぐらいから体が慣れてきたらだんだん5kmぐらいになった。
中3の時の全校マラソンはしっかり上位に入った。やっと達成感、満足感が得られた。自分で出来ないと思っていた事が努力の結果他人も認めるように出来るようになるとその達成感はすごい。長距離走はその後エスカレートし、高校では吹奏楽部に在籍しながら一般のレースで30km走ったり、陸上部に誘われたり、陸上部のチームで市内駅伝に参加し、区間賞をとったりするまでになった。
そのころ、「いはらきマラソン」を見学に行った。スタート、ゴール地点にゲストに金栗四三氏が招かれていて、運命の出会いをする。1912年のストックホルム大会に日本人初のマラソン代表選手となり、倒れるまで走り、行方不明になったという伝説の持ち主である。(オリンピックの公式記録に棄権はあっても行方不明は無く、54年後に当時のコースをゴールまで走り、公式記録の54年8ヶ月6日5時間32分20秒3はマラソンの最長記録の持ち主でもある。僕が会ったのはこの記録達成の1年後)ひとりでぶらぶらしているのを見て意を決して話しかけた。金栗先生からは根性論が聞けるという期待があったが、実際に教えてもらったのは「適時に休む」というトレーニング理論であった。練習の休み方、練習の再開のしかた、朝起きた時の心構えなど、驚くほどの合理的なトレーニング理論に感銘を受け、その考えが後にトロンボーンの練習方法に大きな影響を与えてくれた。
虚弱からの脱却という意味では十分乗り越えた僕の心の片隅には次第に、「運痴」の問題が大きくなった。体力と運動神経はイコールではないのだ。その当時まだ逆上がりはできてないし、縄跳びだって100ぐらいでひっかかる、バドミントンだって空振り、逆上がりなんてとんでもなく、相変わらずの「運痴」で あった。
そんなころ、偶然に卓球部同士のラリーを目の前で見た。まるで空中にいる間もリモコンで操作されているかのように力強くも美しい弧を描く玉すじ、授業中 にいつもふくろうのような眠そうな顔をしている友人の目が、ボールがラケットに当たる瞬間やはりふくろうの獲物を獲る時のような目でしっかり見開いて打つ 姿、勝負事ではない、ボールを打ち合うという事そのものの美しさにすっかり魅了された。
いざ自分でラケットを持ってボールを打とうとすると空振り、やっと触ったかと思うととんでもないところに飛んでいく。すっかりまいった僕は家で壁打ちならぬ、襖打ちを始めた。サーブの要領でボールを投げ上げてラケットを後ろから当てる。これには困った。ボールがかすりもしないのである。空しく下に落ちるボールを見ながら考えた。まず羽根つきの要領でコンコンと弾ませるところから。これでもある程度数打てるようになるのに数日を要した。
次に斜めに襖にぶつける。襖は適当に弾まないからちょうどよいタイミングで戻って来る。角度をだんだん横にしていき、それなりに前方に打てるようになるま で何日かかったか覚えてない。これで少しはコートに入れる事が出来るようになった。学校でちょっと上手な人と打つとボールに回転をかけられてしまった。と てもまともに返球できない。ここで卓球への夢は一度挫折する。
なぜ卓球なのか 小中高編 ― 完 ―
いざ自分でラケットを持ってボールを打とうとすると空振り、やっと触ったかと思うととんでもないところに飛んでいく。すっかりまいった僕は家で壁打ちならぬ、襖打ちを始めた。サーブの要領でボールを投げ上げてラケットを後ろから当てる。これには困った。ボールがかすりもしないのである。空しく下に落ちるボールを見ながら考えた。まず羽根つきの要領でコンコンと弾ませるところから。これでもある程度数打てるようになるのに数日を要した。
次に斜めに襖にぶつける。襖は適当に弾まないからちょうどよいタイミングで戻って来る。角度をだんだん横にしていき、それなりに前方に打てるようになるま で何日かかったか覚えてない。これで少しはコートに入れる事が出来るようになった。学校でちょっと上手な人と打つとボールに回転をかけられてしまった。と てもまともに返球できない。ここで卓球への夢は一度挫折する。
なぜ卓球なのか 小中高編 ― 完 ―
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